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その三.生命は途(みち)を見つけ出す

 誕生直後のせめぎ合いを漸く生き抜いた緑提灯が最初に大きな一歩を踏み出したのが2006年暮れから2007年にかけてである。2006年12月、東京都渋谷区の宮益坂に「宮益坂とんがらし」さんが東京第一号店として提灯を吊した(図7)。食糧自給率1%と言われる東京都で東京産食材50%は如何にも困難なことから、「地場産品応援の店」の言葉に込めた柔軟性と広がりを最大限活かし、国産食材全体と対象にしたところ、「とんがらし」さんはいきなり90%以上の五つ星となり、皆を驚かせた。この店のオーナーOK氏とも、10年来のお付き合い、いつもの話題は殆どOK氏の夢や私の仕事上の苦労話ばかりしていたが、試しに「この店の食材の国産比率は何%?」と聞いたのがきっかけで、緑提灯談義になり、元々の赤提灯が殆ど骨だけ、この界隈で有名なほどぼろ提灯だったこともあり、トントン拍子に話が進んだ。写真でもわかるが、東京初物と言うことで可成り頑張って大型の提灯にカラーで屋号を勢い良く書いている。その関係で星の標記は横型になっている。北海道農業研究センターが開発した小麦粉を評価と普及のお手伝いを頂く中でお会いし、札幌市第二号店となった「うどん処 杉」(図8)さんに続いて2個目の屋号入れ提灯だった。

 渋谷駅から歩いて10分程度、宮益坂を青山学院に向かって上っていくと渋谷郵便局を越えた辺りにこの提灯が可成りの存在感を示している。地下に店を覗いてみていただきたい。学生からサラリーマンまで様々な年齢、タイプの飲兵衛でいつもごった返している。ラッキーだとオーナー氏と愉快な仲間達に会うことが出来るだろう。会うと今でも、提灯を飾ったあの日の話題になる。「地場産品」が「地域限定」の意味から「国産」に広がった記念すべき出来事として、緑提灯発達史を語る上で重要な一ページになっている。生命進化の観点から見ると、生まれたばかりの生命が自らの食性を特殊で限定したものから、いきなり「雑食性」なったようなものかも知れない。このことにより、緑提灯は全国の津々浦々何処にでも灯ることが出来るようになった。「適応能力の飛躍的進化」であった。

図7.東京渋谷の宮益坂にかかる緑提灯東京第一号「とんがらし」さん(2006年12月)

 

 

図8.札幌第2号店、うどん処 杉さん提灯と店長の杉山英明さん(2006年10月)

 この頃になると、緑提灯運動の進化は各所で「同時多発」し始める。茨城県つくば市にある農林研究団地の一角にある天ぷら屋「天将」さんに、丸山氏が緑提灯を灯したのがきっかけで、そこを苗床に農林水産関係の研究者コミュニティーで「応援隊員の増殖」が急速に始まる。実はこの研究者コミュニティーで増殖し始めたことは大きな意味がある。この人々は、研究集会や会議のために、年間を通し日本の様々な都市と地方(特に農林水産関係の研究者は地方に行く機会が他の分野よりも断然多い)を訪れる。その分、緑提灯の種子は広くバラ撒かれる機会を多く得る。またそれと逆方向に、地方の研究者は一年に少なくとも一度は東京都心あるいは筑波地区に集合する。この時、東京都心部周辺に登場し始めた緑提灯店は、応援隊員やその予備軍が緑提灯運動の種子を交換し会える格好の場にになった。結果として、応援隊員が新しくできた緑提灯店に新たな応援隊員予備軍を招き、応援隊員化するという「小刻みな連鎖」が起き始めたのがこの時期である。小刻みでもこの連座反応は、ゆっくりと静かに、しかし想像以上の速度で応援隊員予備軍を全国で産み育てていった。

 そんな2007年夏、緑提灯運動にとって一つの転機が訪れる。会議後の懇親会で知った緑提灯運動を瞬間的に理解し、自らも東京第二号緑提灯を神田「地鶏 ひろかわ」に誕生させたと言う超弩級応援隊員、農林中金総研特別理事の蔦谷栄一氏が、東京大手町のJAビル地下の「道草」(2009年ビルの改装に伴い閉店)に緑提灯を掛けたのである。氏の水際だった動きは留まるところを知らない、その夏2007年8月5日付け日本農民新聞のコラム「蔦谷栄一の異見私見:見よ、JAビルの緑提灯を」を上梓し、我が国の食糧自給率の向上の必要性と緑提灯運動の意味を熱く語ったのだ。遠く離れた北の街小樽で産声を上げた緑提灯が、数々の苦難に耐え、多くの応援隊の手から手を伝いながら、僅か二年で日本の農産物流通の中枢部の足下に辿り着いたのである。東京メトロ丸の内線を降り、JAビル方面に向かうといきなり地下食堂街に幾つもの緑提灯が視界に飛び込んでくる。他用で大手町を訪れ、始めてそれを見たとき、私は何故か熱いものがこみ上げるのを押さえられなかった。それは、冬の小樽ではぐれた子供が、力強く生き抜いて東京で立派に生きている姿に出会ったような、そんな感動を覚えたからだ。この頃になると、流石に同じ業界内なら「緑提灯」の話題を出しても、嘗ての様に怪訝な顔をされることが少なくなった。「どこかで聞いた」、「新聞に出てたあれ?」と言う声が何度かに一度は聞かれる様になった。全く、地の利と人の理を得た大手町進出は運動に計り知れないインパクトを与えたと言えよう。実は、蔦谷氏の快進撃はこれだけに留まらない。年が明けた2008年1月のその日は刻々と近づいていた。

 

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